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受験勉強は努力か才能か【結論:報われない努力の限界もあります】

努力は人を裏切らない

努力は報われる

そういった言説はよく聞きますが、受験勉強においてはその言葉を鵜呑みにすると少々危険です。

努力は無駄とまでは言いませんが、少なくとも「報われない努力があること」「努力には限界があること」を心得ておかないと、厳しい現実に翻弄されることになります。

勉強とは、本来「勉学に励む」というより「無理にでも (=強) 努力して励むこと」という意味です。

つまり、勉強という言葉自体に「努力する」という意味が付与されていますが、文字面の解釈を優先するのもやや危険です。(報われない努力もあるので)

一方「才能」だけで事が進むかといえば、そうでもありません。

要領がよくても、遊んでばかりでだらけていては、伸びる成績も伸びません。

受験勉強は「努力」か「才能」か

今回は、受験勉強は「努力」か「才能」かという究極の命題に注目してまとめます。




【はじめに】「天才」の真似事をしようとしても「凡人」にはムリ

まず、大前提として「天才には、なにをおいても勝てない」と事実を設定しておきます。

(ここの理解がないと、全体感を欠き、暴走列車のように努力し続けてしまうため)

やや受け入れがたい事実ですが、正直に受け入れることでむしろ勉強の効率が増す、というより無謀な志望校設定やかなり無理のある勉強計画を回避することができます。

受験に限らずですが、受験においても客観的な視点は大事です。

 

例えば、20ページの歴史の教科書 (または参考書) をサラーっと1回流し読みしただけで、覚えられますか?(時間にして10分くらい)

 

にわかには信じがたいことですが、こういう「人間離れした芸当」ができてしまう人が、世の中一定層必ずいるという事実は知っておいてください。

テレビ番組で「天才東大生」だとか「頭脳王」と呼ばれている人たちは、そういうレベルの人たちです。

彼らは、ものすごい時間勉強し続けているという訳でもなく、ただ頭の作りが私たちとはまるで違うので、短時間でありえないくらいの成果を出せてしまいます。

仮にあそこまでいかなかったとしても、身近に「どんだけ頭いいんだよ」とか「要領よすぎだろ」とかいう人っていますよね。彼らも、程度の差こそあれ同類です。

天才の真似事をしようとしても、凡人にはムリなんです。

ここは理解しておいてください。と同時に、自分にはどれくらい勉強の才能があって、どれくらいの位置にいるのかを測るようにもしましょう。

後述しますが、受験は「点数による相対評価」の世界なので、全体感をもって自分を評価することが攻略の糸口になります。

受験勉強における「才能」3タイプ

才能とは一口にいっても、少し細分化することができます

①そもそも要領がよく、理解力があること
→俗にいう「天才」タイプで、敵なし

②記憶力がすさまじく、一度勉強したことはめったに忘れないこと
→勉強の効率がよく、勉強さえする習慣があれば成績がグングン伸びる

③勉強を継続する力があること (いわゆる、努力する才能)
→要領が多少悪くとも、努力の力でなんとかカバーできる

受験の「失敗」は必ずしも「努力不足」ではない

上記の通り、受験勉強にはいくつかの「才能」が絡み、たとえ努力したとしても。それが報われるとは限らないということに注意してください。

要するに「単純な努力量で成績が決まるわけではない」ということです。

よく「結果の出ない努力は、まだ努力とは言えない」なんて言いますが、少々暴論でいきすぎた議論となるときもあります。

少なくとも、精神論の教育方針はよくないでしょう。

勉強の「努力」はどこまで通用するのか

では、どこまで効果があるのでしょうか。

これには、受験における「ルール」と「ゴール」を理解する必要があります。

■ 受験におけるルール

受験勉強であれば、ある程度までは才能がなくてもどうにかなるし、努力でカバーできます。

それは「範囲」と「答え」があるからです。これは今後も日本教育における「受験のルール」なので、そこを利用しない手はないです。

※ 欧米の大学だと、もはや試験範囲というものが存在せず、評価も「絶対評価」(答えのある問題の点取り合戦ではなく、面接や論文でのオールジャンルアピール) になってきますが、日本の受験スタイルはこれとは明確にちがいますよね。

■受験勉強のゴール

受験勉強におけるゴールは「志望校への合格」なので、

 

合否 = 努力 × 才能 × 運 × 勉強法 ×キャパ

 

という公式が成り立ちます。

努力」は、勉強時間だと捉えてください。(勉強量は、才能やキャパ、勉強法に左右されます。

才能」は、前述の通りです。

①そもそも要領がよく、理解力があること
→俗にいう「天才」タイプで、敵なし

②記憶力がすさまじく、一度勉強したことはめったに忘れないこと
→勉強の効率がよく、勉強さえする習慣があれば成績がグングン伸びる

③勉強を継続する力があること (いわゆる、努力する才能)
→要領が多少悪くとも、努力の力でなんとかカバーできる

 

」という要素も非常に大切な一要素です。

模試ではいい成績ばかりだったのになぜか本番だけうまくいかなかった人って一人はいると思いますが、運がなかっただけです。

 

勉強法」とは、正しい努力ができているかという「努力のベクトル」とも言い換えることができます。

毎日、長い時間勉強をしていても、成績が伸びない人は、才能がないか、勉強法 (=努力のベクトル) が間違っている可能性があります。

 

最後に「キャパ」ですが、人間にはある程度、記憶できる暗記量だったり、処理できる計算のスピード、思考力などが決まっているので、それ以上のパフォーマンスはなかなか出せないという事実を知っておいてください。

よく「浪人は成績に伸び悩む」と言いますが、あれは自分のキャパに至ってしまっているパターンも考えられます。

いくら努力しても、吸収できるキャパを超えてしまっているので、もうそれ以上は伸びていかないんです。

これは、残酷ですが真実です。(社会人になったら、嫌になるほど目の当たりにします)

そういう事情があるので、努力した分だけ、成績が伸びるのはこれはこれで間違ってはいませんが、努力の一人歩きは危険です。

受験勉強には、適切な「勉強法」で「努力」することが必要

どくに「勉強法」は自分の力でどうにかできる話なので、大切です。

世の中「より多く勉強をすること」が問われがちですが、むしろ「適切な勉強法で挑むこと」にも目を向けるべきではないでしょうか。

努力できる才能は先にもあげましたが、努力の方向性 (ベクトル)を誤ると、意味のない努力になったり、努力しているのに報われないという結果に至ります。

【危険な末路】作業ゲーはよくない

受験勉強において注意しなくてはいけないのは「暗記ゲー・作業ゲーができるということ=有能 (頭がいい) と勘違いしないこと」です。

これは、主に世界史や日本史など暗記科目が得意で、単純暗記をすることに多くの時間を捧げている人に起こりがちな傾向ですが、「暗記ができること」を「有能」だと勘違いしてはいけません。

学歴社会ニッポンにおいては「学歴がある=有能」だとする風潮がありますが、これはやや間違っています。

 

たしかに、学歴がある人の方が真に有能である可能性も高いですが、ただ単に暗記が得意だったというパターンもあります。

あるいは、膨大な勉強量で、自分の低スペックを誤魔化せた、努力型タイプというパターンもあります。

作業として暗記をくり返せば、ある程度のところまではいけてしまうのが落とし穴です。

しかし、後々のことを考えると、受験勉強を作業ゲー化するのは危険と言わざるを得ません。

【さいごに】少し先の話をしよう

受験勉強においては、努力でなんとかなったことも、社会に出るとやや厳しくなってきます。

ムリをして学歴を獲得しても、後々苦しくなってくる」という状況です。

どんなにがんばっても叶わない同期も出てきますし、どうしようも歴然たる差を痛感することもしょっちゅうです。

範囲」と「答え」のあった受験勉強とはちがって、社会には「範囲」も「答え」もありません。

だから、差も広がるところまで広がります。みっともないくらいに差がつきます。

人間社会は、自分のいる組織での「相対評価」によって成り立っています。

能力があっても、ハイスペだらけの集団の中では埋もれてしまって、おいしい思いができません。

逆に、そこそこの実力でも、周囲から見て

そういった「全体感の理解」は、己を助けます。

この時に大事になってくるのが「報われない努力」と「努力の限界」を知っていることです。

そうしないと、いつまでも「自分の努力不足」と自分を追い詰め続けてしまうことになりかねません。

彼らには、どんなにがんばっても敵わないということを理解しましょう。

少しツライことですが、現実を受け入れると「自分のフィールド探し」に時間を使うことができるようになります。

自分の得意なフィールドで、得意な勝負をすればいいんです。それが、大人の戦い方というやつです。

何もわからず、ただ闇雲に勉強しているだけでは徒労に終わります。

日本の歴史、世界の歴史に学べるように「戦術」は重要です。兵力が劣っていても、勝ててしまう戦もあるくらい。

自分なりの戦術を練って、日々を過ごすようにすると、道は開けるでしょう。